『論語』とは、孔子本人が書いたのではなく、孔子の死後、彼の弟子たちが書き付けていた言葉や問答を取りまとめたものです。
経営をしていると、言葉に出来ないほどに辛い状況に追い込まれることがある。このような状況に陥った時に、立ち直れる人とそうでない人がいる。その違いというのはどのようなところにあるのだろうか。
【原文】
儀封人請見。曰。君子之至於斯也。吾未嘗不得見也。從者見之。出曰。二三子。何患於喪乎。天下之無道也久矣。天將以夫子爲木鐸。
八佾第三 24
【読み】
子夏 儀の 封人、 見えんことを 請う。 曰く、 君子の 斯に 至るや、 吾 未だ 嘗て 見ゆることを 得ずんばあらざるなり。 従者 之を 見えしむ。 出でて 曰く、 二三子、 何ぞ 喪うことを 患えんや。 天下の 道 無きや 久し。 天 将に 夫子を 以て 木鐸と 為さんとす。
【解釈】
孔子一行が衛の国境に近い儀という村に立ち寄った際、儀の国境役人が(孔子に)面会したいと願って言った。「ここを通過した人で立派な君子である人と、私はまだお会いしたことがないのです。」そこで、孔子の従者が、国境役人を孔子と会わせた。孔子のもとを退出してから国境役人は言った。「諸君、亡命して流浪しているからといって、どうして心配することがあるだろうか。天下に道義が行われなくなって久しい。天(天上の神)は、今にもあの先生(孔子)を、天下に正しい道義を打ち立てるように諸侯にふれ回る木鐸にしようとしているのだから。」
【ワンポイント・アドバイス】
「封人」とは国境線の防衛に当たっている役人のことであり、忠恕と礼節を備えた真の君子である孔子と会い、国境役人の感動と興奮を表現している。国境役人は故郷の魯を追われて亡命している孔子の弟子たちを励ますように、孔子の稀有な才能と天下を支える人徳について賞賛している。故国を失ったことは悲しむべきことだが、天下の逸材である先生(孔子)に従っている以上、あなた達は何も心配することなどないということである。木鐸とは、天子の御触(おふれ)を民に告げ知らせる時に、手で振りながら鳴らした鈴であり、鉄と木を使用して作られていたことから、穏やかな音を出したと言われている。世の人々を覚醒させ教え導く人のことを「社会の木鐸」と言うが、まさにそれが孔子ということである。
私たちは、自分の置かれた状況が悪くなると環境のせいにしてしまいがちである。その結果、世の中が悪いとか、誰かが悪いとかというように考えることで、自分のコントロール感を失ってしまう。逆に、自分の生き方や働き方をしっかりと確立し、意志を持って生きることで環境に影響されにくくなる。もちろん経営をする上では、環境に対応するというマーケティング感覚が必要なのは言うまでもない。
要するに、世のため人のためという社会や顧客の満足に関する理念を持ち、どんなに苦しい状況になろうとも、強い意志と信念を持って経営することが重要なのである。苦境の中にあり、それを超えてこそ、本物の強さとなるのではないでしょうか。惑わされない信念を貫く経営をしたいと考えている方は、是非ともご連絡くださいませ。